【建築の力とは何だろう】1. なぜ建築を伝える「言葉」が大切なのか

なぜいま、建築を伝える「言葉」が大切だと言えるのか?
二つの方向から考えてみたいと思います。一つは「建築は持っていくことができない」ということ、もう一つは「伝えることができなければ決めつけられてしまう」ということです。

 

建築は持っていくことができない

当たり前のことですが、建築は基本的に土地に固定されている上、多くのものは巨大で高価なものですから、どんなに気に入ったとしても簡単に持っていくことはできません。つまり、ある建築に興味をもったとすれば、人は自分でそこを訪れなければならない。このことは、文学や音楽、映画などのメディア、あるいは自動車や電化製品などのプロダクトと比べたとき、建築の大きな特徴だといえるでしょう。

しかし、もし建築を「言葉」にできるなら、私たちは「建築」の代わりに「言葉」を持ち運び、お気に入りの経験として他の建築と比べたり、他の人と共有したり、別のところで応用できる可能性があります(*1)。そのようなとき、その言葉は建築の魅力を的確に伝えるものであってほしいわけですが、それこそが「建築理論」の役割ではないかと思います。つまり「建築の魅力を的確に伝えて、それを共有可能にすること」が「建築理論」の一つの役割だろうと考えます。

 

伝えられなければ決めつけられてしまう

しかしなぜ、わざわざ「建築理論」という名前を付けて(私が付けたわけではありませんが)言う必要があるのか? そんなことを言わなくても、誰もが建築は毎日使っていて知っているし、ネット上でも議論がされているのではないか? 壁の中に隠れている配管や構造のことなどは普通は知らないとしても、建築の魅力を知らないなどということはあり得ないのではないか?

ここが難しいところですが、簡単に言えば、「建築の経験はそう単純ではないんです」と言いたいために「建築理論」はあると言うことができるでしょう。長い歴史のなかで発展してきたものでもある建築の経験を、簡単に決めつけないでほしい。すると、「それならば説明してくれ」ということになりますから、「言葉」が重要だということになるわけです。

 

ネットワーク社会において、伝わる情報と伝わらない情報

誤解のないように言いますと、私は「みんな建築理論を勉強して、建築の経験に詳しくなるべきだ」と言いたいのではありません。むしろ反対に「建築は各人が自由に経験するべきだ」と思います。ただ、そのときに「もう知っている」と決めつけるのは良くない、と思うわけです。それは「決めつけられるのは嫌だ」という当事者意識からだけでなく、「決めつけてしまうと、むしろ自由に経験することができなくなる」と思うからです。

こんなことを思う理由の一つに、現代のネットワーク社会に対する問題意識があります。インターネットを中心に発展する情報化社会では、ネットワークで伝わる情報に価値と影響力があり、伝わらない情報は切り捨てられていく傾向があります。たとえば、建築に関して伝わりやすい情報としては、機能性(何の役に立つか)や、経済性(どれだけコストがかかるか、どれだけ儲かるか)、新奇性(「斬新なデザイン」)などが考えられますが、少し考えるとわかるように、このようなことだけで建築が魅力的になるわけではありませんから、これで建築を「良い」とか「悪い」とか言うことは本当はできません。

しかし、もしこのような限られた情報で建築の良し悪しを判断しなければならないとしたら、つまり、実際にはできない判断をしている(させられている)としたら、それは各人の自由というより、むしろ不自由でイラ立たしい状況なのではないでしょうか。

 

「言葉」は必要だが、語り過ぎてはいけない

以上のようなことから、ネットで伝わりやすい経済性や新奇性などの他に、建築の魅力や価値を伝える「言葉」が重要であり、それが「建築理論」であるべきだ、と言いたいわけですが、まだ難しい問題があります。それは、伝えたいことが建築の経験的価値だとすると、厳密に言えば、それは実際に経験しなければわからないものだ、ということです。つまり、もしその建築がまだ建てられていないものだとすれば、その価値を伝えることは不可能だということになります。

つまり、「建築理論」は、「厳密には伝えられないものを伝えようとする試み」だということです。しかも、「建築」は誰にとっても身近なものだから、みんな「もう知っている」と思っている。つまり、みんなが「もう知っている」ものについて、伝わらない「言葉」で別のことを納得させたい、というところに「建築理論」の困難があります。

しかしよく考えると、これは「建築理論」に限った困難ではなく、何かの質を伝えようとする「言葉」に共通する困難だと言えるでしょう。そのような「言葉」はみな、厳密には伝わらないことをわかった上で、伝える努力をしなければならない。つまり、うまく伝える方法を考えなければならないけれども、完全に伝わるまで語ろうとしてはいけない。

 

これからの「言葉」

このように「建築理論」を考えるとき、それを文字通りの「書き言葉」や「話し言葉」に限定する必要はないだろうと思います。これも建築においてはすでに歴史があるものですが、透視図や写真などのグラフィック、軸測投影図やダイヤグラムなどの図式、さらにはムービーによるシミュレーションやゲームなども、これからの「言葉」の一部として考えていく必要があるでしょう(*2)。

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*1 このような言葉の持ち運びやすさ(ポータビリティ)について、シルヴィア・レイヴィンが『T_ADS TEXTS 01 これからの建築理論』で少し触れています(205頁〜)。

*2 *1に挙げたシルヴィアのインタビューでも、新しい形態の「言葉」の可能性としてゲームに言及されています。また、原広司が、経験を言語で語ることの限界についてたびたび指摘していることも良く知られているでしょう(『T_ADS TEXTS 01 これからの建築理論』130頁など)。